昔ながらの鍛冶屋 ”佐助” で過ごす、色んなひととき。
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土佐の侍の刀

  【2010秋の特別公開】
  脇差の展示風景
(佐助にて)パネル文より

  こちらの刀(脇差)は、平川家に長年
  保管されてきた無銘の短刀と脇差の
  2振りのうちのひとつです。

  「土佐藩の下級武士が切腹(堺事件
  の際に使用したものである」
  
  という言い伝えと共に受け継がれてきた
  もので、幕末当時の平川家(「住吉屋
  は土佐藩とも関わりが深かったため、
  刀の処分を依頼されたのではないかと
  言われています。

  佐助は、江戸の慶応3年の創業ですが、
  以前は「住吉屋」という廻船問屋を営ん
  でおりました。その頃、土佐藩や紀州藩
  の御用商をしており、火縄銃の製造を始
  め、鉄砲、槍、弓などの武器の修理手入
  れを引き受けておりました。


また、残されていたもう一振りの短刀は先日の堺文化財特別公開の期間中(2010.10.30日〜11月7日)より、「妙國寺」(堺事件において、
まさに切腹が行われた勅願寺)に寄託、以後、保管・展示して頂くこととなりました。

140年余りという歳月を超え、「」と「妙國寺」が「堺事件」という歴史によって引き合わされ、多くの人の意識にこの出来事が思い起こされるこのような機会を得たということは、私共にとっても思いも寄らぬ展開であり、大変な驚きを感じる出来事でした。

まるで、切腹をした土佐十一烈士やフランスの水平の方々、
幕末という混乱の時代を生きた人々から、
変化めまぐるしい今の時代を生きる私達への伝言を受け取っているようで、
まことに感慨深い気持ちが致します。

「私達はどのようにしてこれからをいきてゆくのか、
どのような時代を築いてゆくのか。」を想像する際、この意識ひとつひとつに活かしていきたいと、切に願う限りであります。

堺事件において、日仏共に亡くなった方への御冥福をお祈り申し上げるとともに、皆様へ心より感謝申し上げます。

堺事件と土佐十一烈士切腹

1868年和泉国・堺にて
フランス水平殺害の責を負い・土佐藩士が切腹した事件。

攘夷論のおさまらぬ江戸末期、慶応4年2月15日、フランス領事一行は大阪から陸路、堺に入ろうとした。警備の土佐藩兵は、外国事務局からその通報がなかったため、これを拒み途中で引き換えさせた。

同日夕刻、領事一行を迎えるべくフランス戦艦デュプレクス号は堺港沖に停泊しており、士官以下数十名のフランス人水兵が上陸、市内を徘徊した。土佐藩軍艦府は、警備の藩兵に取締を命じ、帰艦を諭示させたが、言葉が通じず、混雑もあって、仏水兵側は土佐の隊旗を倒伏、逃亡しようとした。このため、警備を担う土佐藩側はこれを捕らえるのではなく咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷または、海に落として溺死させた。

このため、土佐藩側は、フランス人が迷惑不遜行為に及んだための措置であるとした。フランス公使レオン・ロッシュは在阪各国大使と話し合い、下手人斬罪・謝罪・賠償などの5箇条の賠償請求を求めた。明治維新は調停を求めたが、当時の国力の差は歴然としており、やむなく土佐藩20名の切腹、遺族への賠償金15万ドルなどすべての要求を呑んだ。

事件に関わった29名の者が土佐稲荷神社(現在の大阪市西区)で籤(くじ)を引いて切腹するものを決めた。

2月23日、大阪裁判所の宣告により堺の妙國寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。
凄惨な切腹は次々と行われたが11人の切腹を見届けたフランス艦長は処刑中止を申し入れ、部下と共に引き返した。結果として9名が助命された。


妙國寺に寄託した際の記事

佐助公式HP